2012年12月18日火曜日

ハムエッグへの愛

人はそれぞれ心の中に自分の理想の目玉焼きを持っている(と私は思っている)。私の場合は、黄身がむき出しではなく少し白い薄皮が張ったやつがよい。毎朝5時に起きて少しスコアに目を通すと朝食を作り始めるのだけれど、周期的にハムエッグが食べたくなる。もうそうなると理想のハムエッグを作るべく、真剣勝負になる。ハムは本当はオーストリア辺りのショルダーハムが良いのだけれど、日本で手にはいるわけもなく、泣く泣く似た様なハムを買ってくる。卵選びも大切。最低限放し飼いの鶏の卵。
 いざフライパンに油を薄く引く。火加減に注意しながらハムを敷いてゆく。かるく片面をあぶったらひっくり返す。肉汁がでて柔らかい絨毯になったハムの上にそっと(あくまでもそっと!である)卵を割り落とす。ここで黄身が破れよう物ならその日一日ブルーである。しばらくして粉雪の様にぱらっと塩を散らす。卵の無い場所を狙って少量の水を注ぎ、蓋をする。これからが火加減と時間の勝負。旨く行けば固すぎもせず、柔らかすぎもしないふわっとしたハムの絨毯に乗ったハムエッグが出来上がる。
 これぞ人生の真剣勝負。オムレツにせよ卵料理は火加減が命。理想のハムエッグを求めて・・さてスコアよまなきゃ。

2012年12月1日土曜日

ベートーヴェン

ベートーヴェンのスコアと対峙すると、その要求の深さとエネルギーに圧倒される。もちろん書かれている「音符」そのものを並べるのはさほど難しい事ではないのかもしれないけれど、「音符」を「音楽」として実現する要求の高さは並外れて高いし、「音楽」を実現すための技術的要求度は非常に高い。
・ベートーヴェンが要求したsub Pの為に16分音符を一つあきらめれば格段に易しくなる。
・ベートーヴェンが要求したsfを一つあきらめれば格段に易しくなる。
・ハーモニーを無視して演奏すれば、格段に易しくなる。etc.etc...
 でも技術の容易さの為に捨てる物があってはベートーヴェンではない。それは演奏の本質を捨てる事ですらある。
 もちろん捨てる事があっても作品時代がものすごい力を持っているから「それなり」に聞かせる事が出来るのだけど。
でもベートーヴェンが要求したすべての事を実現すればそれはものすごい事になる。スコアから読み取る事が出来る要求度は果てしない・・・orz.....

2012年11月21日水曜日

落ち葉〜〜

この季節のジョギングは日々強まってゆく北風に逆らって、走る日々。でも色とりどりの枯葉を踏みしめる音はそれだけで音楽に感じる。紅葉の鮮やかな色のトンネルを抜けながら走ると、それだけでファンタジーが浮かんでくる。さっき迄少し辛かったジョギングは後ろから後押しされる様に、自然とスピードアップ。今朝も木々からインスピレーションを少しもらって、曲を書く為の新たなアイディア発見。

2012年4月21日土曜日

宴のあとの・・

エネスコの第一狂詩曲の最後のA-durの和音が終わった直後に鳴り響く拍手、スタンディングオペレーション!昨夜はブラショフ市と武蔵野市の友好20周年を記念するコンサート。
直前にしゃべったスピーチのせいか、それとも私の曲の最初のところでオーケストラが余りにも良い音を出してくれたせいか、柄にもなくちょっと緊張して始まったこの演奏会。
この20年という年月を振り返る素晴らしい機会になりました。

20年前、日本という国から見ればルーマニアは実際の距離よりも遠い国に感じられたことでしょう。それが当地のオーケストラの来日により、一気にその距離が縮まり、現在まで続くきっかけとなったこと。そして名ばかりの国際交流が多い中、実効的な国際交流を20年間もしかも市と市という関係で続けて来られた両市には驚嘆するばかりです。
振り返ってみれば一瞬の宴かも知れない、でも継続は着実な力になっています。

次の20年もステキな歳月になりますように。

2012年4月20日金曜日

仲間達と

今日はコンサート。20年間のうちにオーケストラの顔ぶれも大分替わりました。でも今回のコンサートには何人かのリタイアしたプレーヤーがエキストラとしてオーケストラに乗っていて、やっぱり20年前から弾いている彼らの顔を見ると安心します。同時に最近ではこのオーケストラでも頻繁には演奏しなくなったエネスコをみっちり仕込みます。若いメンバーのレパートリーとしてキチンと伝統が受け継がれる様に・・

2012年4月19日木曜日

20年後の現実

ルーマニアの革命から20年立った今、ルーマニアはEU加盟を果たしはしたものの・・今朝のニュースでは水道各種料金などはここ10年で7倍になり、給与水準はEUのなかでブルガリアに次いで低く、依然として厳しい状態にあると報道されていました。EU域内格差という物が今のヨーロッパの抱えている最大の問題であり、ユーロ危機の要因の一つになっていることは間違いない事実です。
今から20年前は20年前に抱えていた格差があまりかわらずスライドしてゆくとは誰も思いもしなかったでしょう。
経済的な厳しさとは反面、この国と人にはなにか「先進国」と呼ばれている国が忘れてしまった人情や懐かしさがあります。豊かさと引き替えに無くしたなにかが、、

2012年4月18日水曜日

日本語と国際交流(ルーマニアここ20年)

他の国について理解するという行為は、直接その国を訪れる以外にも、二次的な行為が多い。たとえばその国外国人と知り合う、インターネットを見る、本を読む、勉強する。その国の食べ物を食べる、そして私達音楽家にとってはその国の音楽を演奏する・・日本という国という面から見れば最近では車、電気製品、アニメなどのポップカルチャーを通して日本の存在を意識している外国人も多いのでしょう。でもどれもが偏った理解をもたらします。
 真の国際理解はその国の言葉を話すこと・学ぶことと常々思うのです。
外国語を学ぶと言うことは言葉の意味だけではなく、その言葉の文化的、民族的背景をしらないと理解出来ないことも沢山あります。音楽でさえ、書かれた国の言葉を理解しないとその真の意味が理解出来ないと思うことが頻繁にあります。
 日本を本当に理解して貰うには日本に興味を持った人に日本語を学んで貰う事が一番よいのです。ここ、ブラショフに20年間も日本語交流の草の根活動を市という単位で続けて来られた武蔵野市の活動は本当に驚愕に値します。そしてそのおかげでこの街では日本に対するシンパシーが育っていって居るのです。

20年まえのこと

あれからもう20年・・・・1992年9月ルーマニア・ブラショフ市のフィルハーモニーがルーマニアの交響楽団として初めて日本を訪れました。1989年の革命から2年、1991年に共産党支配の時代に物質的な支えが何も無く、息も絶え絶えだったルーマニアのオーケストラへの援助キャンペーンを支えてくださったのが、地元・武蔵野市でした(当時は土屋正忠市長)。
このことをキッカケにブラショフ市と武蔵野市との市民レヴェルでの交流が始まり、今でもブラショフからの研修生を武蔵野ブラショフ市民の会が中心になって引き受けたり、日本語教師を毎年派遣したり地道な交流事業が続いています。
日本という国の文化を正確に発信するという意味での、日本語学習の海外での展開は本当にすばらしいと思います。
リーマンショック以降、ルーマニアでは芸術団体にとって別の意味で20年前と変わった厳しさがありますが、この様に息長く市民レヴェルの交流が続いたことに感激しています。
今週はこのルーマニア・ブラショフで交流20年を祝うコンサートです。しばらくこのコラムでは日記代わりにルーマニアの話を書いてみたいと思っています。

2012年3月11日日曜日

いちねんまえ

一年前の今日、ルーマニア時間の朝の7時半(日本時間14:30)、私は素晴らしかった前日のルーマニア・ブラショフでのコンサートの余韻を引きずりながらオーケストラの手配した車に乗り込み、いつものようにブカレストに向かった。そして8時半になったころだろうか?(日本時間15:30) いつものように何気なく手元の携帯電話を手に取り、日本の家族に電話をかけようとした。が、何度欠けても出るのは「この回線はただ今非常に混み合っています」というアナウンス。「何かが起きた」。すぐにネットや情報を手に入れることが出来るであろう ブラショフとウィーンの友人に電話をした。この二人の友人から地震があったことを知らされる。ブカレストの空港に着き、チェックインを済ませ、テレビを見ると丁度大津波が押し寄せているライブ映像が流れていた。幸い家族とはなぜかブカレストに居る私経由でネットを使い全て連絡が取れ、ウィーンに向かう。ウィーンのチェックインしたホテルではNHK国際放送の映像を食い入る様に見ていた・・そして翌日、日本向けの飛行機はもしもの場合は仁川、大阪に降りることも示唆しながらウィーンから飛びだった。良く13日発のウィーン発東京行きはキャンセル。13日の朝成田に到着。その日は京成スカイライナーが動いていたことが、ラッキーではあった。空港からそのまま結果的に延期になってしまった練習に向かった・・・・・・
一年前はそれぞれの人がそれぞれのドラマを持って居たのだと思います。 震災後一週間は原発の緊迫した状態におびえ、節電が始まり、また私達にとっては本当に役に立てるはずであろうコンサートの場が次々と中止になり、有無を言わさぬ閉塞感をみなが感じていたに違いありません。
 そして、この一年 Kibou Music Project などを始めとするチャリティコンサートなどで、自分なりに出来る事はやってきたと思いますが、本当に人間というのは色々な意味で無力だな、もっと出来る事はあったのかな??とも感じます。
 そして、この一年色々な震災対応を見ていると歯がゆい感じがするのは私だけでしょうか。政治家達の中でクローズアップして見えるのはお互いの権力争い。そしてそれに乗じて権力を手にしようという新興勢力。その中で置き去りにされたのは弱者ばかり。千年に一度の災害は千年に一度の政策で乗り切らなければならない、という気概が欲しいと思ってきました。被災地、ひいては日本全体の経済が活性化すること、復興ではなく「災い転じて・・・」となる様なアイディア。例えば被災した地域に遷都する位のアイディアがなくては・・・。遷都することによる被災地へのインフラの整備や関連によって瞬く間に雇用の問題など解決するとも思うのです・・・。そんな妄想を思いながら・・・。
 今日はこれから戸田で震災一年のコンサート。自分に出来る事をきちんとこなしながらこの一年を振り返ってみたいと思います。