2012年4月21日土曜日

宴のあとの・・

エネスコの第一狂詩曲の最後のA-durの和音が終わった直後に鳴り響く拍手、スタンディングオペレーション!昨夜はブラショフ市と武蔵野市の友好20周年を記念するコンサート。
直前にしゃべったスピーチのせいか、それとも私の曲の最初のところでオーケストラが余りにも良い音を出してくれたせいか、柄にもなくちょっと緊張して始まったこの演奏会。
この20年という年月を振り返る素晴らしい機会になりました。

20年前、日本という国から見ればルーマニアは実際の距離よりも遠い国に感じられたことでしょう。それが当地のオーケストラの来日により、一気にその距離が縮まり、現在まで続くきっかけとなったこと。そして名ばかりの国際交流が多い中、実効的な国際交流を20年間もしかも市と市という関係で続けて来られた両市には驚嘆するばかりです。
振り返ってみれば一瞬の宴かも知れない、でも継続は着実な力になっています。

次の20年もステキな歳月になりますように。

2012年4月20日金曜日

仲間達と

今日はコンサート。20年間のうちにオーケストラの顔ぶれも大分替わりました。でも今回のコンサートには何人かのリタイアしたプレーヤーがエキストラとしてオーケストラに乗っていて、やっぱり20年前から弾いている彼らの顔を見ると安心します。同時に最近ではこのオーケストラでも頻繁には演奏しなくなったエネスコをみっちり仕込みます。若いメンバーのレパートリーとしてキチンと伝統が受け継がれる様に・・

2012年4月19日木曜日

20年後の現実

ルーマニアの革命から20年立った今、ルーマニアはEU加盟を果たしはしたものの・・今朝のニュースでは水道各種料金などはここ10年で7倍になり、給与水準はEUのなかでブルガリアに次いで低く、依然として厳しい状態にあると報道されていました。EU域内格差という物が今のヨーロッパの抱えている最大の問題であり、ユーロ危機の要因の一つになっていることは間違いない事実です。
今から20年前は20年前に抱えていた格差があまりかわらずスライドしてゆくとは誰も思いもしなかったでしょう。
経済的な厳しさとは反面、この国と人にはなにか「先進国」と呼ばれている国が忘れてしまった人情や懐かしさがあります。豊かさと引き替えに無くしたなにかが、、

2012年4月18日水曜日

日本語と国際交流(ルーマニアここ20年)

他の国について理解するという行為は、直接その国を訪れる以外にも、二次的な行為が多い。たとえばその国外国人と知り合う、インターネットを見る、本を読む、勉強する。その国の食べ物を食べる、そして私達音楽家にとってはその国の音楽を演奏する・・日本という国という面から見れば最近では車、電気製品、アニメなどのポップカルチャーを通して日本の存在を意識している外国人も多いのでしょう。でもどれもが偏った理解をもたらします。
 真の国際理解はその国の言葉を話すこと・学ぶことと常々思うのです。
外国語を学ぶと言うことは言葉の意味だけではなく、その言葉の文化的、民族的背景をしらないと理解出来ないことも沢山あります。音楽でさえ、書かれた国の言葉を理解しないとその真の意味が理解出来ないと思うことが頻繁にあります。
 日本を本当に理解して貰うには日本に興味を持った人に日本語を学んで貰う事が一番よいのです。ここ、ブラショフに20年間も日本語交流の草の根活動を市という単位で続けて来られた武蔵野市の活動は本当に驚愕に値します。そしてそのおかげでこの街では日本に対するシンパシーが育っていって居るのです。

20年まえのこと

あれからもう20年・・・・1992年9月ルーマニア・ブラショフ市のフィルハーモニーがルーマニアの交響楽団として初めて日本を訪れました。1989年の革命から2年、1991年に共産党支配の時代に物質的な支えが何も無く、息も絶え絶えだったルーマニアのオーケストラへの援助キャンペーンを支えてくださったのが、地元・武蔵野市でした(当時は土屋正忠市長)。
このことをキッカケにブラショフ市と武蔵野市との市民レヴェルでの交流が始まり、今でもブラショフからの研修生を武蔵野ブラショフ市民の会が中心になって引き受けたり、日本語教師を毎年派遣したり地道な交流事業が続いています。
日本という国の文化を正確に発信するという意味での、日本語学習の海外での展開は本当にすばらしいと思います。
リーマンショック以降、ルーマニアでは芸術団体にとって別の意味で20年前と変わった厳しさがありますが、この様に息長く市民レヴェルの交流が続いたことに感激しています。
今週はこのルーマニア・ブラショフで交流20年を祝うコンサートです。しばらくこのコラムでは日記代わりにルーマニアの話を書いてみたいと思っています。